存在と時間
- Ken
- 1 日前
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ものごとを俯瞰して見るようになったのは
14歳の時に母を亡くしてからのことだ。
それは世界に直接身を曝さずに生きるために
本能的に身につけた癖で
身を守るバリアのようなものだったと思う。
まだ自我が定まっていなかった思春期に
唐突に肉親との永遠の別れを体験して
自分の存在(生)と母の不在(死)との
折り合いがつけられずに、咄嗟にとった
ある種の逃避行動だったとも言える。
背後にはいつも黒い影を感じていた。
いつかこの感覚も感情も一切が無くなる時がくる。
自分の不在、無の世界
考えてしまうと、手に汗が滲み
幾度となく夜中に突然目を覚ました。
このようなことは、自分だけに限らず
身近なひととの突然の別れを体験した人には
同じようなことがあるようで、
学生時代に親友を亡くしたという女性に
「私も全く同じです!」と共感されたこともある。
自分の場合、長いあいだ右往左往した後
ようやく地に足がついてきたかな、と
実感できたのは40代も半ばになってからで
気づくと、夜中に突然目を覚ます
というようなことは無くなっていた。
「自分の時間へ」長田弘
あとがきにこのように綴られている。
「自分の時間は、ほんとうは、他の人びとによって
つくられているのだと思う。 他の人びととのまじわり、
他の人びとの言葉とのかかわりをとおして
明るくされてきた自分の時間について、
ふりかえって記憶の花束をつくる。
自分の時間へというのは、 自分の時間をつくってくれた他の人びとへ
ということだ。」
多くの人たちとの時間を思い出す。
そのひとりひとりと交えた言葉が 記憶として積み重なって
今、存在している自分につながっている。
そして、その人たちもまた
今なお自分の中に存在している。